世界最長のスプリントともよばれるオフロードレース、BAJA1000は、今年で40周年を向かえる。
その記念すべき第1回目のサバイバルレースは、1967年、メキシカン1000ラリーとして始まった。
当時、サウスカリフォルニアの砂漠地帯では、オフロード走行用に改造したスクランブラ−と呼ばれるバイクでのレースや、ファンライドが盛んに行われていた。
カリフォルニアのライダー達は、自由に走ることができる広大な土地に恵まれてはいたが、そこは、ライダーの性なのだろう。いつしか、国境を越え、半島を縦断するまともな道すら通じていなかったバハ・カリフォルニアを舞台にアドベンチャーライドを楽しむ人たちが現れ、さらに、いつの世でも変わらぬように、記録に挑戦しようとするライダーが出てきたのだ。

世界的に見れば小さな日本のオートバイメーカー、HONDAは、その年発売したCL72というスクランブラーのプロモーションとして、バハ・カリフォルニア半島の縦断タイム記録樹立を企てた。
1962年にデイブ・イーキンスとビル・ロバートソンの2人のライダーによって、その歴史的な半島縦断行軍は行われた。
もちろん明確な規定は無かったので、彼らは、スタート地である、国境の街ティファナで電報を打ち、ゴール地のラ・パスでやはり電報を打って半島縦断の時間を計測したのだ。
半島中央部で夜を迎えた彼らは、行くべき道を失い、ビルの乗るCLの1気筒がブローするものの、なんとか半島南端部のリゾート地ラ・パスにたどり着いた。そして、先に到着したデイブが電報局で打った電報の時刻から、ティファナでのそれを引き算すると、それは、39時間56分というすばらしいタイムであった。

記録は塗り替えられるためにあるといわれるが、新しい記録を打ち破ろうと次々にライダー、ドライバーが、半島縦断の記録に挑戦していった。翌年には、やはりオフロード用に改造した4輪で新しい記録が生まれたりしたが、その計時方法や、ルートがまちまちであった。
レースの始まりは、至極単純である。一定のルールの下で半島縦断の記録を、という自然発生的な流れからBAJA1000は始まったのだ。
BAJA1000は、途中メキシコ政府が主催するも失敗し、その翌年の開催がなかったり、主催団体が変わり、名称も変わったが、初めて半島縦断レースの開催から今回で40回目のレースとなる。
現在の、サル・フィッシュ氏率いるSCOREの主催になってから、33年である。その、草創期には、パリダカールラリーの創始者、ティエリー・サビーヌ氏も視察に訪れたと言うほどオフロードレースとしての形態がすでに確立されていた。アメリカのマーケットのみならず、世界的にもメーカーの宣伝広告、そして技術開発の場としても発展することとなる。
しかし、もともとライダー達の好奇心から始まったレースという位置付けは変わらず、改造の度合い排気量などでクラス分けされ、なるべくイコールコンディションで戦えるようになっている。

マシンの性能は、この40年で、アポロ11号とスペースシャトルの違いと同じほどの変化を遂げた。
フロントフォークは正立から倒立へ、リアサスペンションは2本ショックからモノサスへ、空冷から水冷へ、フレームがアルミ製へと、新たな技術も投入され、スピード、耐久性、衝撃吸収力など総合的な走破力は飛躍的に伸びた。
しかし、そんな高性能なマシンをしても太刀打ちできないバハの自然は、今も昔と変わらない。そして、ライダー達の熱い思いも、変わることはない。これからも奇跡の半島が存在する限り変わらないだろう。

40周年を迎える今年のBAJA1000は、イベントとしても大きな大会になる。45年前に記録を作ったCL72が、ティファナで展示されパレードランをするようだ。
けっして、懐古趣味というわけではないが、この機会にCL72で参戦しない手はないだろう。
時代を逆行する空冷、2本サスのマシンだが、他人との戦いではない。相手はバハの自然そして自分自身である。
先人達の苦労を、そして、達成感をこの機会に味わって見るのもわるくない。
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