メキシコはアメリカと同じく合衆国で、31の州からなる。
そのメキシコ合衆国の最も西に位置する、太平洋に突き出た半島まるまるがバハカリフォルニア州である。正確には、1300kmに及ぶ半島のほぼ中央の北緯28度線を境にバハ・カリフォルニア州と、バハ・カリフォルニア・スル州に分かれる。
スル(=SUR)は、スペイン語で南を意味し、北半分のバハ・カリフォルニア州は、混乱を避けて北を意味するノルテ(=NORTE)と呼ばれる事もある。

半島縦断の国道1号線を南下してくると、ちょうど州境に位置する塩田で有名なゲレロ・ネグロの街を通過するが、その入り口にある、高さ43mの大きな音叉の様な、イーグルをかたどったモニュメントと、メキシコ国旗が目を引く。
28度線の象徴であるモニュメントを見上げながら通りすぎるとすぐに、軍の検問所がある。
国道1号を北から下ってくると、数箇所に、主に拳銃と麻薬を取り締まるミリタリーチェックポイントが設置されているが、この州境の検問では、銃、麻薬の検査の他、農作物の検疫、さらにツーリストカードや、パスポートの提示を求められる場合もある。
また、この州境の北がロサンゼルスなどと同じパシフィックタイム、南がデンバーなどと同じマウンテンタイムとなり1時間の時差がある。

メキシカン1000ラリーとして始まったBAJA1000の第1回目は1967年に開かれたが、当時は、半島の南半分は、州として制定される条件の人口8万人に満たなかったので、連邦管轄地域のバハ・カリフォルニア南部準州として残っていた。
北部準州は、ティファナやメヒカリなどアメリカ国境の街の発展に伴い人口も増加し、1952年にメキシコ29番目の州、バハ・カリフォルニア州となっていたが、半島を貫く国道1号線は、建設はされていなかったので、南への陸路でのアクセスは、BAJA1000のレースコースさながらの状態であったのだ。
国境のティファナから半島南端部に位置する、現在のバハ・カリフォルニア・スル州の州都ラ・パスまでの移動は10日もかかっていた。
BAJA1000のレースの起源となる、1962年にアメリカのホンダディーラーが企画したCL72での半島縦断走行のタイム記録行で、デイブ・イーキンスが打ち立てた39時間56分は、当時としては本当に驚くべき事だったのだ。

1973年にようやく国道1号線が建設され、半島の北と南が総延長1700kmの舗装路でつながると、1年もしないうちに8万人に満たなかった人口も増え、1974年にバハ・カリフォルニア・スル州は、メキシコの31番目の州として誕生した。
ただ、現在も、バハ・カリフォルニア・スル州の人口はメキシコ全州の中で一番少ない。250万人といわれる半島全土の人口のおよそ85%が北に住んでいる。
征服者コルテスが発見した時は、武器をも金で造ると信じられていた理想郷「カリフィア島」だと思われていた土地も、いつしか「天に見放された大地」、「忘れられた半島」などと形容されるほど、人の暮らしにはきびしい自然条件であるからだ。

半島縦断国道の建設は、その輸送能力により、バハの農業・漁業の発展、そしてアメリカのみならず各国からの観光客を呼び、半島の発展に大きく貢献している。しかし、もし米墨戦争でアメリカ合衆国にバハ・カリフォルニアの領土も譲渡されていたら、BAJA1000はなかったかもしれない。
砂漠の真中にカジノの街を造ってしまう国だから、片側4車線もあるフリーウェーが半島を貫き、砂の大地も緑のカーペットを敷いたかのような芝生で覆われ、オフロードとは無縁の土地になっていただろう。
実際に、半島最南端のカボ・サン・ルーカスの今日は、アメリカ系の高級リゾートホテルが立ち並び、ゴルフコースが点在する、まさにリゾート開発の真っ最中である。
少なくとも、半島中央部の砂漠地帯の開発はあまりしないで欲しい。オフロードライダーの「理想郷」だから。
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