バハ・カリフォルニア半島の南端に位置するLa Paz(=ラ・パス)は、南バハ・カリフォルニア州の州都である。デューティー・フリー・ポートとして栄え、バハ・カリフォルニア半島で最も大きな港街となった。
ボリビアやフィリピンなど、スペインの影響のあった世界各地に、スペイン語で「平和」を意味するLa Pazの地名があるが、バハ・カリフォルニア半島のLa Pazは、ジャック・クストーが「世界の最も大きい水族館」と呼んだ、白い砂浜と青い海の文字通り平和な街である。
その歴史は、洞窟に描かれた壁画だけが、かろうじて最初の移住者の存在を教えてくれるのみであるが、1万2000年以上前までさかのぼることができる。
不毛の大地ではあったが、天然の港となる海辺や、オアシスとなる谷間に、Cochimi、Guaycura、Pericuなどのインディヘナの人々は暮らしていた。
時は流れ、1535年、スペイン人エルナン・コルテスが現在のLa Pazを発見し、Santa Cruz(=サンタ・クルス)湾と名付け居留地とした。しかし、2年後、主に耕作にむかない乾いた土地での食料不足から、その地を放棄した。
そして、次にこの地を訪れたセバスチャン・ヴィスカイノが、 1596年に居留地としたSanta CruzをLa Pazと改名し、街を興した。
武器をも金で造るアマゾネスの住む島「カリフィア島」と信じられていた理想郷ではなく、金も見つからなかったが、インディヘナ達が髪飾りにしていた、La Paz湾でとれる真珠貝の豊かさを発見した。

真珠の養殖は世紀を跨ぎ、1800年代初始めにかけて世界の真珠産業の中心といわれるようになった。米墨戦争により1847年に米国軍が侵入したとき、100隻ものボートが真珠の採取作業中であったという。
20世紀までには、年産高25万ドルにおよび、ロンドン、パリをはじめ、ヨーロッパ各地の市場で取引されるほどであった。しかし、原因不明の病気、あるいは乱獲などの理由により、第二次世界大戦の終わりまでには、バハの真珠貝は、ほぼ全滅状態となってしまった。
1939年に、政府は永久に、真珠貝漁業を禁止し、4世紀にわたるLa Pazの真珠産業の終焉を迎えた。

小説「The Pearl」、そしてそれをもとにした映画「La Perla」などでしか、当時の真珠養殖の様子をうかがい知ることしか出来ないが、La Pazの街には、「Perla」(=pearl真珠)の名をとった「La Perla Department Store」や、「Hotel Perla」、「Dulceria Perla」などのお店や施設が多くある。
「La Perla Department Store」は、真珠トレードセンターとして1860年に開設された歴史的な建物をそのまま使い、スーパーマーケットとして営業していたが、残念ながら2006年10月に火災でその半分を失ってしまった。
「Hotel Perla」は、ラパスにおける最初のホテルとして、1940年に設立された。街の中心となる地域のビーチに面したコロニアル風の建物だ。
屋上バー・ラウンジからは、エメラルドグリーンのコルテス海を見下ろすことができ、釣り客のために朝の5時から営業している1階のレストランでは、美しいLa Paz湾からの涼しい風を感じることができる。

半島を縦断する過酷なレースBAJA1000のゴール地となるLa Paz。砂とサボテンの大地1600kmを走破したものだけが味わえる至福の時。砂埃で、ブタさんのように鼻の頭を真っ黒にしながら完走したライダーは、La Pazの海で真珠のように輝くことができるのだ。
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