アメリカ=メキシコ国境から約300km、バハ・カリフォルニア半島の太平洋側を南下すると、サン・キンティン(San Qintin)という街がある。
現在のサン・キンティンは、海から数km内陸の海岸線と平行に走る、舗装の国道1号線沿いに栄えている。車で3分も走れば通り抜けてしまう程の規模の小さな町ではあるが、海岸沿いから、国道を超えてさらに数km先の山脈までの間の平野部には、広大なトマト畑が広がる農業の街だ。収穫時期には、季節労働者として働く先住民達の姿を多く見かける。

入口に砂洲が延びる静かな入江で、天然の良港となるサン・キンティン湾は、アメリカのサン・ディエゴを発見したホアン・ロドリゲス・カブリリョによって1542年に発見された。そして、その後の探検家セバスチャン・ビスカイノによって、サン・キンティンと名付けられた。
1880年代、太平洋岸の重要な貿易港としなるため、ユマ(アリゾナ州)−サン・キンティン間、サン・ディエゴ(カリフォルニア州)−エンセナダ間の鉄道建設の計画が興った。また、メキシコ政府の政策により、イギリス人たちが入植して小麦の栽培をはじめ、サン・キンティンには、製粉工場が建設され街は発展していった。
しかし、1892年から1896年の間に一滴の雨も降らない大干ばつの影響で、小麦栽培は衰退し、鉄道建設も夢と終わってしまった。

1940年代後半になると、メキシコ政府は湾周辺に1970年代前半まで続くマグロ、イワシ、サバの缶詰工場を設立した。
サン・キンティン湾は、良い漁場として漁師達だけでなく、ヒラマサ、キハダマグロ、シイラ、オヒョウ、スズキ、マカジキなどのゲームフィッシュの釣り人や干潟に集まる渡り鳥を狙うハンターたちが訪れるようになった。
そして、1951年にニューヨークのホテルでシェフをしていたアル・ヴェーラと、当時缶詰工場マネージャであった妻のドロシーは、小麦工場跡を買い取り、改築して、その釣り人やハンター達のためのホテル&レストラン、「オールド・ミル・ホテル」を開業した。
アル・ヴェーラの引退後、アル・ガストンが引継ぎ、ホテルの横に釣り人達に必要なタックルショップや、ボートランプも設けたRVパーク(キャンプ場)をオープンさせ、数年営業した。
その後、ガストンは新たな事業の為ホテルを手放し、さらにオーナーが代わった。現在は、ジムとナンシーが、旅人達を出迎えてくれている。

25部屋ほどの客室は、2人部屋で、30ドル(US)からというリーズナブルな料金で、宿泊できる。そして、その料金には、「Pacifico」というメキシコ銘柄のウェルカムビールも含まれている。
テレビも電話もエアコンもないシンプルな部屋だが、とても清潔で快適に過ごす事ができる。また、幾つかの部屋にはキッチン設備が備えられていて、長期滞在の太公望たちは、自分達の獲物を調理することもできる。
そして、朝の早いアングラーたちのために、5時半から絞りたてのオレンジジュースとメキシコ風スクランブルエッグの朝食が食べられる、別棟のレストランのおすすめは、やはりシーフードだ。カリフォルニア沿岸部で有名な、「Pismo Clam」という大きなハマグリが、サン・キンティン湾最深部の干潟では潮干狩りで良く獲れる。そのハマグリのニンニクが利いた酒蒸し、そしてもうひとつの定番、カニのツメを、皆でシェアして食べるのが豪快でよい。
また、桟橋に続くレストランの入り口には、バーベキューグリルがあり、獲った魚や肉を炭火で焼くこともできるようになっている。
桟橋から覗くと足元を小魚の群れが泳いでいたり、その小魚を追いかけてきたペリカンたちが羽を休めていたり、生命感あふれる光景を見ると、わずか数km先から砂とサボテンの荒野が広がっているとは思えない。
かのヘミングウェイの息子、ジャック・ヘミングウェイがしばし滞在して執筆活動していたという「オールド・ミル・ホテル」の、海に面した中庭のはずれには、その名の由来となる、古い製粉機の一部と煉瓦造りの壁の跡が今も残っている。
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